泣くかもしれない

f:id:wpale:20160711215150j:image

かっこよく言うと中学生のときからあった性への意識を分かりたかった。高校生になるにつれて自由に行動できることが多くなって、映画館にひとりで行ってみたり東京をひとりでぶらぶらしたり、わたしはわたしなりに、その年なりにあてもなく寂しい気持ちをまぎらわしてきた。17、18歳。その意識は強くなってきてそれと同じように行動してみた。周りからしてみたら奔放で身軽でばかだって言われるかもしれないと思ったけど意外とネットにはあふれていた。それでもわからなかった。

この本を知ったのは映画がきっかけで予告を見たときこれだって思った。求めちゃうんだよねうんうんってなった。でも映画を見てもよくわからなかった。

一年経っていろいろあって映画の主題歌を聴きながら大泣きした2日間。いま。今なら少しはわかるかもしれないと思って買って読んでみた。わかるわからないを追いかけて買ったけどちょっとわかった感じがした。この小説を書いたのが女子高生ってだけでそのとき世間はざわついたらしいけど、そのときにしか書けないとものだと思った。きっと十代特有な気がする。生理を、性を、意識しないと女を自覚できない十代の中にいて寂しい気持ちをまぎらわすのにはぬいぐるみじゃなくて異性に変わっただけで、それは生理の血みたいに気持ち悪いことなのかもしれないけどわかってもらうまで止まらないのかもしれない。わかるうと言われるのは嫌いだけど、これだけは誰かに言われたい。同じような感じの人と深刻な顔して話してみたい気持ちもあるし軽い気持ちでわかるうって一言で終わらされて蹴飛ばしてほしい気持ちもあるなかで。

わかってもらいたいのもやっぱり十代特有なのかな。まずはそこから行動したのもあるし。興味は3分の1で残りは自分を守るため。ツイッターやインスタがない時代に生まれてたらもっと悪い方向に流れてたかも。

受験が終わったら映画をもう一回見たい。